2010年12月23日木曜日
ガムの噛み始めは甘く美味しい。
そしてこれがずっと続けば良いと思う。
しかし、ずっと噛んでいると甘味が失われていく。
甘味を見つけるために噛み方を少しだけ工夫したりもする。
その努力も空しくガムは次第に無味なものへと変わってゆく。
と言って無碍に吐き捨てると口寂しくもなるし、
新しいガムも直ぐにはいらなかったりもする。
それを吐き出すにはタイミングと言うものが存在したりもする。
そのきっかけが訪れるまではとりあえず噛み続ける。
場合によっては、もう吐き出したいと思っていても銀紙やティッシュの不所持によって、
そうすることが出来ずに噛み続けるしかないこともある。
2010年10月28日木曜日
2010年10月27日水曜日
2010年10月19日火曜日
瀬戸内ふぃくしょん
瀬戸内の島々、そこに点在する作品群。
瀬戸内の風土から生まれた作品も、瀬戸内でなくても存在の耐えうる作品もそれぞれに面白かった。
自然や町並み、食事。そして島を渡る為の船の不便さ、それもまた良かった。
女木の防波堤で出会った-の電気質を帯びる警備員の兄さんと、男木の飯屋で相席したマイレージ姉さんことイマムラさんとの会話も楽しかった。
警備員のお兄さんとは音楽の話をしたり、地元民の目線からこの芸術祭の話を聞いたり、-の電気質によって空の電池を握り締めると残量が回復したり、花の首飾りが枯れなかったりする驚異の人体であったり。
イマムラさんは海外出張の猛者であったり、新品のIpodタッチとえらく古めかしい太宰治の本を持っていたり、ジャズピアノをやっておられたり、どこか面白い雰囲気だったり。
そして、芸術観光というのか観光芸術というのか分かんないけど、それがどっかフィクションじみていて。そこが個人的に面白かった。
船で集団的に運ばれて、到着した島でとりあえずバスに乗って集団で目的地へ向かう…降りる、そして点在している作品群を見て回る、次のバスに乗る面子はさっき降りた人たち(自分も含めて)。そして次のバスで降りる場所もまた同じだったり、島を出る船に乗ると見かけた顔がちらほらとあったり、なんだかパッケージ風で、いかにも観光している感じが良かった。
一回旅行すると、また別の地にも行ってみたくなる。
一人旅も誰かと旅行するのも楽しい。
2010年10月4日月曜日
2010年10月1日金曜日
2010年9月20日月曜日
のるて
東京都が検討している
「18歳未満のキャラクター、いわゆる非実在青少年が性的な行為をする創作物の販売を規制する」
と言う条例に対する反対表明をメインテーマにした、笑いのある演劇。
この条例は規制する側の主観によって裁定されてしまう恐れがふんだんにあるので、それに対する表現者側の危惧や、天下りの利権うごめく背景もあるとか。
個人的には友人がとても良い役をもらっていたというか友人のイメージと役柄がうまく合致していた気がする。
大学教授役の友人の台詞は観客だけじゃなくて、その他の演者をも笑わせていた(芝居中に思わず笑ってしまうのはどうかとも思うけど)。
「もし自分の講義中に最前列で生徒がおもむろに糞食行為をしていたなら、俺は怒るよ。だけども部屋で一人糞食にふけるなら、それは認めるし、誰がそれを否定できるのだ?だからロリコンやオタクたちが自分たちの性癖に一人、部屋で没頭するのを咎め、規制する権利などを誰が有しているのだ!」
こんな感じのことをもう少し言葉下品に叫んでいた。
このシーンは討論会があってそこでのやりとりなんだけど、討論会でメインテーマの全てを説明しちゃったのはどうかと思ったり。それでも、その討論会も面白かったし、実在している普通の(弱虫でルーズだとか、聡明ながら変態的であったりする)青少年よりも、実在しない普通の青少年(模範的に若者とはこうあるべきだと言う聖人君子なイメージ)を守ろうとしている!って主張は良かった。
純粋な人間って基準を設けたとして最高点(例えば100点)にあるのがキリストや仏陀であったりして、それが人類の目指す姿ならば、人間の行いに関する採点方法は加点式でなく減点方式だと思う。
0から100を目指すのではなくて、100をいかに維持できるか。と言うか維持するのが当たり前、と言うか維持とかって言葉さえ見つからないのが本当に純粋な人間なんだってことで、でも行い全てが善行なんて人はまだいない。
そんな責めることの出来ない非実在的な存在を盾に条例を通そうとしている!それは危険思想だ…云々って言っていました。
採点方式の部分は僕のアイディアなので、劇中ではそんなやりとりは出てきてないです。
書きたいことはもっとあったっけ。なかったっけ。とりあえず、散漫な感想だすなぁ。
あと、気になったのは劇中では児童ポルノ法案とこの条例が同じラインで語られていたけれど、そこは違うと思いました。理由は別のものだからです。
2010年9月1日水曜日
ちゃいな
今日、最後の勤務で地域との繋がりの大切さを改めて実感した。
そして愛想を良く。
「僕が炸裂させるのはハピネス」
良いフレーズです。
そして2日からまた別の花屋で勤務します。
激務に忙殺されて、あっという間に一月になったら東京いきたい!
メイドいんチャイナ
そんなTシャツが欲しくなりました。こんな感じで作る、ぞ。やっぱりポップなのが好きだな。
中共の星とメイドいんチャイナのロゴ。なんか現代的なフレーズで、素敵なのです。
黒いシャツにデザインしたのは洗濯したら、ボロボロになった!ありゃーもう着れない。けど、原因は分かってる。
深夜の空腹はいつだってコンテンポラリーだす。
欲しいのはデジタル一眼レフとか画材とか画集とか本とか。ほんとか?ほんとです。
ちゃいな!
2010年8月23日月曜日
2010年8月11日水曜日
2010年8月5日木曜日
花のマスク
5月末、イタリアはフィレンツェに花の男現る。
ぼくが花の男になる前は、マスクという顔を隠すもの着用すれば、個の顔が消えることで、個人の意識から発生する羞恥心も消えると考えていました。ぼくらがぼくらと認識されるのは概ね顔に頼っていますからね。
なので、知り合ったばかりのAnsyに花のマスクを被りましょうと打診して、あっさりと拒絶されたぼくは愕然たる思いで、フィレンツェの乾いた風に吹かれて揺れるAnsyのライトブラウンの人工的縮れ毛を茫然自失と眺めていました(そういえばあの日はずいぶんと晴れた日だったっけ)。
―ここにそのやりとりが記されている。ここではAndyが主体となっている―
「顔を捨ててみませんか?なに未来永劫捨てるわけじゃないですよ、ほんの小一時間ですよ。」
五月末、地中海の優しく乾いた風が私と眼鏡の男の間を吹きぬけた。
「顔を捨てる?つかめないな」そう言って、私はテーブルの上に置かれていたステンレスの灰皿の縁に目をやった。湾曲した私の双眼が私を怪訝そうに見つめていた。
「いえ、本当に簡単なことですよ、マスクと言うか、まぁ覆面ですね、それを被って街を歩いていただく。それだけです、もちろんその分の対価はお支払いするつもりですが」
「なんで、わざわざ私がそのマスクを被るんです?顔を捨てるなら、別にあなた自身でも問題ないわけでしょう?」
「それが分かっておられるなら話は早いと思うのですが…」
「だからこそ…つまりなぜ私なんだ、と思うんだよ」
「おっしゃる通り、あなたでなくても誰でも良いんですよ、結局のところ。でも、誰でも良いって事はあなたが適任であるってことでもあるでしょう?もしかして、なにか顔を捨てることに恥じらいを感じてらっしゃるんですか?」
「恥じらい?そりゃ少なからずあるでしょ、それは当然だよ」
「まぁおっしゃることは分かりますよ、ただそれは顔を有しているからそう感じておられるんですよ。顔がないんだから、誰もあなたをあなたと判別できないでしょう。それならどこから恥じらいが発生しますか?顔を無くした瞬間からあなたはあなたでなくなり、誰でもない者になるんですよ」
「それでも自分がマスクを被っている事実は変わらないよ。そうなれば自意識が行為に追従するでしょう、そこに恥じらいが生まれてもおかしくはないさ」
「そうでしょうかね、むしろ顔を持たないことで行為の範囲はいくらか広がりますよ、なにしろあなたはあなたでないのですから。その広がりはあなたの力ではなくマスクが生む力ですよ。川面をすべる木の葉のようにマスクの力に身を任せてしまう方が変な恥らいも生まれませんよ。恥じらいってのは往々にして自意識からの発生でしょう。その自意識はどこから生まれるかと言えば、自分が自分であることの違和感でしょう、これは自己的な自意識ですね。その違和感も案外、顔を有しているからなんじゃないでしょうか。つまり顔が個を大きく決定づけていると。そして顔という個があるからこそ他者と繋がってしまう。そこから他者性の自意識が芽生える。顔がなければ他者との繋がりも消え失せるんじゃないですかね。」
「よくわからないけど、どれだけ言葉を並べたって、やはりそれは君の言葉だよ。私の考えには成り得ないよ。」
「もちろんです、僕の言葉です。無理やりに押し付ける気はないですよ。ただ、魅力的だとは思いませんか、その誰でもない者になるとうことは…ぼくたちは生きている限り顔に言動を規定されてしまうんですよ。匿名性になると誹謗中傷だって平気な精神性を持ちあせているんですよ。それを皮膚で包むと非常に現世的な聖人君子が出来上がってしまうんですよ、つまりマスクには別人格への足がかりなんですよ、それがさっきも言った行為の範囲が広まると言うことですよ」
「そんなこと言ったって、マスクを着脱する際は君かその知り合いがいるんだろう、それじゃ私は私を捨てきれないよ」
「だからと言って一人でやるにはまだ勇み足でしょう?」
「よしてくれよ、そういう揚げ足を取るような話の進め方は。やらないよ、私はやらない、いや、できないよ。」
初対面のMiukに手伝いの打診をしたときも、あのくりっとした目に怯えみたいなのが浮かんでいたように思うし、もちろんぼくもそれが当然だと思いました。
半強制的なぼくの誘いにMiukがぼくの手伝いをしてくれることになったのは悲劇か喜劇かわからないけれど、刺激にはなるだろうと、ぼくは一方的に感じていました。
Ikdの二人は、彼ら特有の距離感からわりと快く引き受けてくれた様に思います。周知の通り旧知の仲でありましたから。
ぼくは花の男になる為に花の大聖堂付近の路地でマスクを被る。
そして、ここから先はぼくでなく花の男になったのでした。
変身のその姿をReoと名乗るレストランの店員に目撃される。
「Hey Boy、なにやってんだYO?」
「一緒に写真撮ろうぜ」
「Wow, Hey Men No3Qだぜ」
「かまうもんか」なぜなら…
「No!Fuckin’boy また今度だ See you あげいん」
「かまいやしない」なぜなら花の男は顔がないのだから。
Reoはメニューボードに顔を隠して、お互いの顔が不詳のまま記念すべきシャッターが切られた。
それから大聖堂正面へ向かい歩いていく。
「わお、なんという視線の冷たさ。マスクの中はこれほど暑いというのに。
なぜ…まさか…こんなはずじゃ…もっとちやほやされるはずだったのに… 」
マスクによって押し殺されたはずの羞恥心が発芽する、あるいは発牙して、花の男の心を噛む。 噛み痕から花の男の心情が漏れてくる。まるでもんじゅのナトリウムのごとく。
マスクがぼくに“もっと歩け”と囁いている。
「にげちゃだめだにげちゃだめだにげちゃだめだ…
逃げるどこへ?マスクを被ったまま?顔のないものを裁くことができないけれど、それは無罪でも有罪でもなく、裁判はこの地上で際限なく広がり続ける。
そして地球が丸くなって以来ぼくの踏み出す一歩が世界の中心になるのだから…
だからといって=価値の中心になることではないことくらい明白に分かってはいるのだが…もちろん、諸君がどう思おうとぼくの知ったことではないのだが…
結局、ぼくが逃げ出さないのは…ちぇそんなことどうでもいいじゃないか…
なに今すぐ、マスクを脱いでやる…裁判を終わらせてやる…!」
いうまでもなくぼくはマスクを脱がなかった。
こうして花の男は歩みを続けた。
子連れの家族のよびかけ、あらあなた、いいわね、うちのBabyと一緒に写真に撮らせてくれないかしら。
「Hey Mam ごめんこうむるぜ?」と言った表情のBaby。
それでも母は強し、Babyの意見は無視され、花の男とBabyは一枚の写真に納まった。
このやりとりをみていたのは英語を話すおじさん。
「Who are you?」
花の男は世界のどこにいても、もはや異邦人なので英語なんて通用しない。
花の男が誰であるか、どこから来たのか…?
と言うより顔を無くすことでそう言った人種の壁さえ融解するのです。
それでも花の男は自分が「Jap」であることを口にしていました。
なぜなら、おじさんは顔でコミュニケーションを図っているのだから、花の男の正体が気になるのは当然なのですから。
それからたくさんの人と一緒に写真に写った花の男。これはつまりインパクトともに人種の壁を越えたアプローチ(つまり中の正体は不問)だと花の男は感じました。
中の正体が不問であるから、花の男としての行動はいくら目立つとしても、いや、目立ってしまうからこそ、顔をさらしている普段の行動よりも身軽なものになるのでした。
顔があると、なにかと目立たぬように過ごそうとするのが人の常なのですから。
ほら、言うじゃない“見るのは愛で、見られるは憎悪”
マスクを被ることで目立ったとしても、それはマスクまで。見られているようで、見ている。見ているつもりが見られている。
カメラで撮っているつもりが撮らされているということ。
―ここで字体の異なる別の文章が挿入されている…ただ内容は上記の文章とどうも似ているが、どうも散漫でまだ未完のように思われる―
しかし、重要なのは、ぼくが再発信されるのではなく、その花の男、行為のみが再発信されると言うことです。
なぜなら花のマスクを被ったその瞬間、ぼくはぼくでありながら顔を喪失するからです。
ぼくらが漠然たる他人から確固たる個を判断するのは言動でしょうか。往々にして顔で判断するでしょう。
顔の喪失により他人がぼくをぼくと認識するのは困難になり、誰でもない者になれる。“誰でもない者”と言うのは“誰か”ではない。完全なる匿名なのである。そこにぼくをぼくと見なす顔がないのだから。
ぼくらは顔で生活をしている。顔が日常の通行手形になってどこへも行ける。
顔で生活しているからこそ、誰でもない者の行動範囲というのは非常に狭く限られてしまう。手形なしに私有地へ一歩踏み入れることは非常に難しくなる。私有地へ顔を持たず踏み込むのは顔を隠したほうが事が運びやすい強盗くらいでしょうか。しかし、強盗も日常的な行為では有り得ない。
では、マスクが必要な場面とは。
それは素顔では成り得ない者になる為に顔を隠して行為に及ぶシーンである。
儀式や祭りで見かけるマスク、覆面レスラー、仮面舞踏会、銀行強盗の目だし帽等々。いずれにしても日常の場面ではなく、マスクの有効範囲は神聖な儀式から犯罪行為にまで及んでいる。
マスクの日本語訳は仮面となり、つまり“仮の面”である。それは別人格に他ならない。
儀式におけるマスクは土着信仰的な意味合いがあり、マスクをつけることで、人間でないモノ(民族的なマスクは往々にして人外の様相)になり儀式をとおし、その土地の神と交信し災い回避を願う。
仮面舞踏会では顔を隠すことで大胆なアプローチも可能になり、情事もその場のみで終わり、日常には関与しない。
ある選手が覆面レスラーになることで変容する試合運び。
その他、マスクを被り、顔を隠す状況と言うのは、変身的、あるいは個の消却的な意味合いが含まれている。(剣道などの面は防護目的であり、面の下に誰がいるのかは基本的に分かっているので、ここで言うマスクの用法とはいくらかずれている)
しかし、この花のマスクは上の行為にいまいち当てはまらない。それこそが花の男の存在の耐えうる理由なのかもしれない。
花の男の出現場所はパブリックスペースであり、顔を持つ人々が一番他人になれる空間である。それ以外の空間に一歩足を踏み入れるということその通行手形なしで顔を持ったものと同じ場に存在するとうことで、それは非常に危ういことである
顔を持つものは自分以外の他人は風景として扱われるのである。どれだけ人ごみで体が密着しようとも完全なる顔を持つ他人なのである。その瞬間にぼくらは自分の顔を、他人の顔に安心感と疎ましさとさえ感じるのではないか。
それは見ることと見られることが生む愛憎かもしれない。
しかし花の男は他者の視線を感じながらもマスクがそれを遮り、その視線を見返すのである。その振る舞いを顔を持つものは他者はどこかで期待している。
花の男として誰でもない行為に及ぶためにマスクを被る。そして誰でもない者は、マスクの下で自由な人格形成が可能になるのではないか。いや、新たな人格形成の為にマスクが存在すると言っても過言ではない。
ぼくでないボクはぼくから解放されて、行動も少しだけ広がるようになる。顔を有しては出来ないことが可能になる。
これはそもそものマスクの成り立ちと通じる部分が少なからずある様に思われる。
とは言え、花の男も中の正体の気持ちによってその行動は規定されてしまうのだと実感し、花の男の中身がAndyだったとしたら、また違う形で花の男はフィレンツェに存在したのでしょう。
そして、撮影(これをIkdとMiukに頼んでいたのです)されていると言う意識も少なからず花の男の行動を大胆にさせる一因になるのでした。
あとはそこにハプニングでも起これば映像記録は非常に興味深いものになったかもしれない。
2010年6月13日日曜日
アッシジ日記
僕が待っているのは、Miukという女の子だ。僕が待っているのは、その前日か、そのまた前日辺りに約束をしたからだ。あるいはもっと前だったかもしれない。
Miukが既に僕を待っていたからと言って僕が時間に遅れたとは限らない。
列車の出発時刻は8時何分かだ。
僕はマックで朝食を買う。並んで買う。そして買った。
おや、マックラップとコーラSの会計が4.5ユーロだ。
マックラップのセットはポテトもついて4.5ユーロなのに。
列車に乗り込み、自由席なのだから、僕はMiukの正面に座る。あるいはMiukが僕の正面に座る。
僕がマックラップのチキンを食べているのは、僕がマックラップのチキンをきちんと選んだからだ。
僕とMiukは話をする。あるいはMiukも僕と話をする。だけど、僕らは僕らの話をしないし、する。僕らが話したことを長々とだらだらとここに記さないのは、僕がその内容の大半を忘れているからだ。
覚えている話は僕らについての話だ。
MiukにはJohnという犬がいる。Miuk曰く天才らしい。ほう。
Miukが僕の隣に座る。Mikuは眩しいと言う。陽光が僕の正面に差し込んでいる。
列車が緩やかなカーブの後トンネルをくぐると陽光が僕らに対して差し込み始める。
Miukはまた僕の正面に腰を下ろす。彼女は自分は太陽に弱いと言う。僕はそれに返事をしたか定かではないが、恐らくアッシジまではあと一時間半はかかるだろう。つまり僕らは既に一時間は何かを話していたらしい。
僕たちのこと、あるいは僕たちのことでないことを話していたらしい。
MiukはAntonioはどこかに行ってしまえば良い、と言う、あるいは私が、と言った。そして僕は笑う。
つまりアッシジまでの到着時間が着実に近づいていると言うことだ。
アレッツォやペルージャを越える。窓の外は基本的に山であったり農地であったり川があり湖があり、まるで現代的な造形は見当たらない。その生活に必要であれば、自然生成的に発生するかもしれない。
必要ないものは本来必要ないはずなのに、いつのまにか必要なのかもしれないというような気になってくる。それも案外素敵なライフスタイルだと僕は思う。本当にそう思う。
Miukは手か目を失うことが有るなら私は死ぬだろうと言う。僕も恐らくそうだろう。
そろそろアッシジについてもいい頃だろう。
おや、気がつくとここはアッシジだ。
アッシジの観光地へ向かうにはさらにバスに乗らなければならない。
おや、気がつくとここは観光地だ。ここは駅よりも遥かに高い位置にある。
Miukは坂、段差が素晴らしいと言う。
僕らは地図を持っていない。
それでも大した迷子にはならない。Miukは自分の方向感覚は天才的だという。ほう。
歩く。歩く。歩いては写真を撮る。歩く。写真。
日照りはいよいよきつくなってきたぞ。
空腹がいよいよ近づいてきたぞ。
トラウマ。
Miukが、僕が以前の旅行でアッシジに訪れたときにありえないまずさのレストランに入ったことがトラウマだということを知っているのは、僕がそれをMiukに話したからだ。
さらにMiukが、僕が以前女の子に告白の際に“温泉卵くらい好きだよ”と言って振られたのを知っているのも僕がそれをMiukに話したからだ。それも嬉々として話したからだ。
僕は僕の話をする。
ありえないまずさのレストランは今日も繁盛していて、僕は何ともいえない気持ちになる。
あれは思い出か、トラウマか。
僕がきのこを食べないはある程度僕との付き合いがあれば分かってくる。
それでも僕はきのこであるトリュフを食べることは厭わない。あるいは絵にすることもある、それも少なからず。
この点、僕だって案外、きのこ撲滅運動などが起これば、嬉々として傍観せずに危機として立ち向かうかもしれない。
なにしろ、僕の目の前には独特の芳香を漂わせるトリュフのパスタが置かれているからだ。
なにしろ、そのパスタが良くできているからだ。
なにしろ、そのバスタが10ユーロであるからだ。
つまり僕とMiukはとあるレストランで昼食をとっているということだ。
以前のトラウマも、もはやトラウマ的思い出として、“温泉卵”のように嬉々として話し出すだろう。いや、既に嬉々として何度も話している。ほう。これを書いている最中に温泉卵とメールのやり取り。なんという偶然だろう。本当に偶然なのか?
食後の観光はだらだらだらしがないじゃないかMiuk。
そう言いながら僕らは一番有名な教会のベンチに三十分くらい腰掛け、MiukはAntonioは死ねばいいと言う。僕は笑う。ここは教会だというのに。ときどき、静かにしてくださいというアナウンスが流れても、僕らには無関係のように思えた。いや、思えない。それでもMiukはJohnは天才だと言う。僕は犬なんていうのは言語を持たない故に限界のある生物だと言う。MiukはJohnはそれでも天才だと言う。僕らはこんな話をする。ここは教会だというのに。
それから僕らは観光地の一番高いところへたどり着く。
暑さのせいで景色に対する感動も陽炎のようにぼやけて消える。
おや、気がつくつと、ここは帰りの電車の中だ。
電車に乗るまではタイトなタイミングになるかもしれないと不安を持っていたけれど、電車に乗り込むとMiukはAntonioは死ねと言ったかもしれない。もしかすると言っていないかもしれない。僕はそれを聞いた覚えがないからだ。
僕らの街まで二時間半。Miukは僕の正面に座りながら居眠りをする。僕を、あるいは窃盗を警戒しながら居眠りをする。あるいは僕の隣で居眠りをする。あるいは僕の正面で居眠りをする。
Miukの隣にメガネのおじさんが座る。
僕はMiukに犬の輪郭を描いてもらうために紙とペンを渡す。
メガネがちらちらとその筆の行方を追う。
僕がMiukからその紙とペンを引き継ぎ、表情をつけていく。
メガネがちらちらとその筆の行方を追う。
僕はMiukに紙とペンを再び渡す。
メガネがちらちらとその筆の行方を追う。
僕がMiukからその紙とペンを引き継ぎ、完成させる。
それをメガネにおもむろに渡す。
ミスター、その絵はミスターにプレゼントします、Mr.ミスター。
メガネとその連れ合いと会話が始まる。
おや、気がつくとここはフィレンツェ。
おや、気がつくとここは京都。
おや、気がつくとここは布団。
おや、おやすみなさい。
2010年3月25日木曜日
2010年3月19日金曜日
はんとし
そのことに大して意味はないけれど、前から言っていた花を使ったインスタレーションが昨日から始まったのですが、そうしたことを勤務開始から半年で行えた事に意味があると思いたいのは、僕が妙に焦っているからでしょう。
この焦りはやっぱり同世代や先人たちの二十代の頃と自分を比べてしまうところからきています。
言い訳ばかり浮かんできてしまうのが嫌です。
昨日(17日水曜)の夜の7時前から搬入開始して、花を吊るすためのセッティングが8時くらいに終わり、そこからひたすら花を吊るしていく作業だったのですが、終わったのは朝の6時。
吊った花の総量は100本ちょいくらい。
展示場が少し狭く作業がしにくかったのもありますが、やっぱり段取りが良くなかったんだろうなと今更思います。
それにわりとゆるい感じの雰囲気で作業していたってのも、関係してるかな。
でも、楽しく出来たのでそれはオッケーです。
出来上がったものは現時点でのこの半年分の成果がありました。
それでも花の上級者が見れば花の組み立て方なんかはまだまだ見直す点がたくさんあるでしょう。
自分でも反省や批判しながら、これもまた一つのステップに。
スペースの管理者のヤマダさんと手伝ってくれたもりくんに感謝します。
2010年3月9日火曜日
がんQタン
フランス人のバタイユさんが書かれました。何年前でしょうか。結構前です。
で、がんQタンは『眼球譚』が本来のタイトルです。が、それは日本語での話しです。
が、フランス語のタイトルはどんなのか知りません(表紙に書いてあるけれど)。
ぼくはがんQタンを読んで、キョウガクしました。
なぜかぼくはこのがんQタンという響きが大好きで、ある日、夕刻、自転車、帰宅、思いついたのです。
薔薇球譚って作品を作るるる。それは薔薇を使って眼球を作るというアイデア(薔薇と眼球がなにも掛かっていないけれど、僕は眼球譚が大好きなのです)
だけども、まずは先のインスタレーション(18日に搬入予定です)を優先させるためにアイディアのままにしておきました。
だけど、先週の中頃から薔薇球譚の習作なら作っても問題ありますまいってなことで、今日作りました。
薔薇は高いのでカーネーションで代用しました。真ん中のピンクはガーベラでっす。
とりあえず花球タンと名づけましょう。
白いカーネーションを25本も使ったけれど、それでも若干本数が足らなくて完全な球体ではないのが悔やまれます。本当はこんな感じで二つ作りたかったのです。
でも60本あれば二個作れることが分かりました。
イメージ通りにいけたところもあるので今日はこれで問題はないです。
ただ、薔薇は高いです。金がねぇ、金が無ぇ。
AC/DCのライブいくー。でも一人は若干さみしいです。
川本真琴の新アルバム最高やないか。
眠たいです。
2010年2月10日水曜日
2010年2月6日土曜日
こらーじゅ
コラージュは初めてなのですが、カット&ペーストって難しいし、作業自体がわりかし面倒だけど楽しいっすね。
今日、インスタレーションに使うカトレアキャップ(花を保水するためのもの)が届きました。
最初は飾る花は5本から10本って言っていたけれど、ロット毎(1ロット100本)でしか買えず、当初の予定よりもはるかに多く手に入ったので、せっかくなので、いっぱい使ってしまおうと思います。
面白い花や珍しい花も使って展開していきたいです。
花はどうしても日常的な有用性が無いので感心も薄くなりがちなので、こんな花もあるんだなと知ってもらえれば、それがいつかどっかで還元されるのではないかと思ったり。
ホンコンカッポクの値札がかわいくできたと思います。
よろしくお願いします。
2010年1月23日土曜日
ねふだ
ぼくにはぼくなりに客の目を引く値札を作った。これが良いか悪いかは別にして。
紙を生物の形に切り取って影をつけていく工程は
いのうえしんたさんからの影響なのか、分からないけれど(やり始めてから、そう言えばと気がついた)、
なんとも言えないギャップがかわいい、そんな値札になったと思う。
実際に、チューリップを指差して笑ってる通りすがりの人もいたからね。
だけれども、僕のこうしたポップな行為を店長はあんまり手放しに喜んでいない感じだったり...?
今日は本を結構買った、と言ってもほとんどが古本の小説なのだけれど。
谷崎潤一郎『陰影礼賛』『刺青・秘密』
池澤夏樹『南の島のティオ』『カイマナヒラの家』
夏目漱石『こころ』
田中康夫『ブリリアントな午後』
武田泰淳『ひかりごけ』
こんなに買ったけれど、実は目的の本は置いておらずでした。
『ジェネレーションX』の作者が影響を受けたという、『なんとなくクリスタル』って言う田中康夫の作品。
読書感想文書きたいけれど、書きながら悦(レビューサイトにありがちな)に入りたくはないですね。
でも『陰影礼賛』は、本当におすすめなのです。
それこそ悦に入ったレビューを書きたくなるくらいに。
目からうろこの日本文化に関するエッセーでございます。
2010年1月22日金曜日
えっくす
*この年代区分はぼくが今なんとなく引いただけです。あるいはポップス世代とか。
『ジェネレーションX』という本を読んで、なんてことを思ったのです。*年代区分は1960~1974
現代っ子はポストポップス世代。
わかんない、てきとうです。
天井から吊るしたワイヤーに花を一本ずつ固定していく(茎の切り口は保水された状態)。
それをショーウィンドの中に五本から十本くらい吊るし並べておく。
通勤通学の人たちが何気なくそれを見る。毎日見る。
ゆっくり着実に花々が枯れていくのをご覧いただきたい。
そんなインスタレーションを昨日の夜、思いついた。
早く実行したいです。
おばあちゃんに花を贈った。
こんな夜は本でも読んで寝よう。
池澤夏樹の『スティルライフ』がいい。たまに読みたくなる。
心は平穏でありたい。常に、非常に。
2010年1月12日火曜日
アル キョウガク スベキ ジタイ
(驚愕すべきは人が花を送るという行為に対して、花屋がその意識を持ち合わせていないという事態である)、
なので、僕は、お客さんと一緒に花を作ろうと決意した(若いうちはね…と笑われても)。
それが、驚愕すべき事態を避けられる手立てと信じて。
あの女性客には僕は申し訳なくて仕方が無い。
お客さんに賢い消費をしていただくために、
僕は他の花屋さんを薦めることもあるでしょう。