2011年12月22日木曜日

とりあえず

来年から勤めているショップのコンセプトが変わる。

あるスタッフはその方向性と言うか、社長の方針が今ひとつ掴めないと言っている。
まあ社長の気まぐれと言うことに関しては、そうなのだろうと思う。

だけど今、思うとこの店で働き出したときの印象としては、お洒落なだけだなと感じていた。
平凡なモダンと言うか。

モダン、近代的って言うのは獲得すべきものだと思っていたから、そのコンセプトを強固に打ち出のであれば、社長に賛同したい。

それっぽい店でそれなり花を売るよりも、試行錯誤しながらでも独自路線を行くほうがきっと楽しいに違いない。

とにかく社長のあれしたいこれしたいを自分の経験に変えて行かねば、この先は見えない。

2011年12月16日金曜日

地下室のハーモニー

伊藤計劃の「ハーモニー」を読んだ。 高度な医療厚生による管理社会。 病気の排除。他人を労わり、他人から慈しまれる関係性。 限りなく調和に近い社会。 しかし、その空気に耐えられない人も中にはいる。 原因は「意識」。 その微妙な蟠りが調和を完成させない。 が、その意識を人間から取り去ってしまっては、人間活動の根拠はどうなる? しかし人類のモデルに到達する為には意識を排除しなくてはならない。 こんな世界観の近未来のお話。 読んでいて思い出したのはドストエフスキーの「地下室の手記」。 「およそ一切の意識は病気である」なんて言い切る地下住人。 水晶宮ではあらゆる事柄が自明になっており、選択の必要は無いし、 もちろん主体性も不要なのである。 オルゴールが調和を奏でさえすればそれでいい。 しかし、そんな社会のどこが楽しいのだ? それに人間ってやつは完成された社会になったとしても、 気まぐれにそのシステムを打ち壊そうとするやつが現れるもんなんだ。 なんかもっとたくさん書きたいけど、そんな力がない。 それがこの「ハーモニー」の主人公やその友人であったりする。 文体も軽くて読みやすいし面白い。 登場人物の名前がアニメ的な雰囲気だった。意図的なんだろけど。 そこが最後まで馴染めなかった。 霧慧トァンとか御冷ミァハって。 個人的にはそんな社会が来ることを望む。 自意識に絡まって他人が敵に見えるよりも、 博愛の調和に満ちた機械的な人間の方がいい。

2011年11月21日月曜日

映画の鑑賞法についての雑感

今までは映画を観るというのは映画館のスクリーンやTVの前で2時間くらい座する必要があり、
それにはやはりそれなりの時間的余裕がなければ難しいものがあった。
いくらお気に入りの映画とは言え、全シーンを隈なく観ることもなかなかに容易ではない。
一度観るくらいでは映画の筋は覚えていても、登場人物のセリフなどはイマイチ覚えられないし、
確認したい場面のために巻き戻したり早送りしたりするのも手間がかかる。
個人的に映画はすきだけど、映画を観ると言うのは骨の折れる作業だった。

しかし、テクノロジーの発展により、
ポータブル機器に映画を落とし込むことが出来る様になったのは映画鑑賞における一つの革命的な出来事に思える。
特に現代人の必需品である携帯電話に於いてそれが可能になったことに大きな意味がある。
要は映画がポケットに収まってしまったということ。
文庫本と同じ様にいつでも気軽に観ることができる。
文庫本を適当に開いて読み始めるのと同じ様にどのシーンからでも観始められるこのスナック感覚が一番画期的な気がする。

ただ、スナック的なだけあって2時間も携帯電話の大きくはない画面を観続けるのはつらいから、何度も観た映画を落とし込むのが良いとは思う。

「マグノリア」と「存在の耐えられない軽さ」を観よう。
これらの映画の中には見るべき台詞も多いことでしょう。

この記事を読んだ人がいれば、あなたの好きな映画を教えてください。

2011年11月5日土曜日

ワイパー

雨降りしきる、本日 しりきに動くワイパー なんてダサい動きだろうか ふとワイプなんて言葉が浮かぶ TV画面の隅に浮かぶタレントの表情 ワイパーのダサい動きは雨を隅に追いやる ってことは ドライブとドライバーの関係性のように ワイプとワイパーは同じ語源か ワイプが隅でワイパーは隅に追いやるモノ 真実はどうか知らないけど、 こんなつながりをハイパーリンクというのか。

2011年11月3日木曜日

植物と動物

植物と動物。
動物界隈で一番大きいのは恐らく鯨。
陸上動物なら象。
人間に比べると確かに巨大だ。
しかし、植物はその背丈だけで言うと象はおろか、鯨よりも遥かに高い。
そこらへんに生えている樹木でさえ立派なもんだ。

動物とは動く物。
植物とは植える物。
動物は動けるからこそ生まれる生存競争の中である程度の大きさで留まらなければやっていけなかったのではないか。
逆に巨木たちはその背丈がなければ淘汰されてしまったのだろうか。

「生物と無生物の間」で人間はなぜこの大きさなのかと問うていた。
その答えは人間がきちんと機能する為の必要な細胞が今の大きさを形成するとか言ってた気がする。けど、数年前に一度読んだだけなので違うかもしれない。

動ける物は、能動的に子孫繁栄の活動ができる。
植える物は、受動的にならざるを得ないけれど、高さのある樹木はより遠くへ種子を風に乗せて飛ばすことができる。

その整合性はともかく、こんなことを考えているとなんとなく映画で見るような山とか森にいきたくなりました。

2011年10月25日火曜日

パート2

その後は配る花はなくなったけれど
それぞれの顔なじみの店に顔を出すことに。
なんとなくオフショット的な感じで。
















FRAPBOIS
我流居酒屋 海月
biji
ISELY

ゲリラ的な訪問にも、みなさん嫌な顔をせずに迎えてくださりありがとうございました。

またどこかでフラワーマンが出没したらそのときはよろしく。
10.19の花ゲリラの様子を振り返る。

用意した約400本の花(Cocks-comb・ケイトウ)











衣装協力のセレクトショップ印、裏寺店の店長さんと記念撮影。























その記念撮影していると4、5人の人だかりが。
花を配った人からはサインをもらう。























そして街へ繰り出すフラワーマン
この画像でなぜかビートルズが連想された。









修学旅行の女学生に囲まれるフラワーマン一号
やる前からある程度予想はしていたけれど、
傾向として、集団の女の子たちからちやほやされることが多い。
4回ほど、うら若き女学生から囲まれた。












外人に断られるフラワーウーマン
スルーされたり断られると割とマスク越しにもなぜか恥ずかしい












しかしゲリラ的な花に喜ぶ人も。





そんなこんなで約1時間半で、
用意した全てのお花を配ることが出来た。

お花がなくなった時点で印に戻り、衣装チェンジ。
チェンジと言うか自前の服装で再び。
そしてパート2へ続く。

2011年10月24日月曜日

いっつ まい エポックメイクアタック

明日、パフォーマンスについて書きます、更新します。
いつも、その文体に悩まされる。

花のこと。
こう言った非対称的なデザイン。作った自分としては良いと思う。
そして、なによりお客さんや受け取る他人が驚かせる様な面白い花を配置していきたい。

2011年10月21日金曜日

花ゲリラvol.2

来週、今回のパフォーマンスのまとめ記事を書きます。

2011年10月20日木曜日

2011年9月3日土曜日

なにかと

集中力がない。
読みたい本などたくさんあるというのに。
バベルの塔かしら。

明日の仕事を忘れて耽るのだ。明日も仕事だと言うのに。言うのにね。

さあさあ。

2011年7月27日水曜日

数日前、「コクリコ坂から」を観てきた。
昭和と言う時代のノスタルジーってやつなのね。
しかし、このノスタルジーってのは何なんだろう。

辞書にはこう記してある
ノスタルジア【nostalgia】
異郷にいて、故郷を懐かしむ気持ち。また、過ぎ去った時代を懐かしむ気持ち。郷愁。ノスタルジー。「―をおぼえる」


異郷にいて故郷を懐かしむのは分かるけれど、まるで体感したことのない1960年代に僕がなぜ郷愁なるものを感じるのだろう。というか感じているのだろうか。
まあやっぱりメディアからの影響なんだけど、その時代を体感していないにも関わらず何か大事なものを失くした様な感覚が僕の中に頭も擡げている。
何も失っていないこの喪失感をノスタルジーと呼ぶ?
あったことは知っているけれど、今はもうなくて、それをどこか惜しむ気持ち。
これは懐かしさなのだろうか。

ところで生きているってことは時間の流れの中の最先端に居ると言うことで、過ぎ去った時間にいくらかの名残を抱いてしまうのが、空腹ではないけど、満たされてもいない文明的現代人の僕の性質なんでしょうか。

ついでに生半可に去勢されて生きている僕としては、作中にあった学生運動のようなバイタリティを見せられると、本能の残滓が疼くけれど、それだけでおしまい。
だから、未開の地の人々が近代化を目指して、自分たちの歴史を書物上の出来事に追いやる行為、彼らが投げ打とうとするその生活が宝箱で、獲得に熱を上げるのはありふれた木箱でしかないと言うことを歯痒く思うのも、やはり僕が柔らかい土地から眺めているからだ。

そう、この感覚はノスタルジーや懐かしさと言うよりはないものねだりだ。
単なる羨みなのかもしれない。不可逆的なレアアイテムみたいな。
そうだよ、懐かしさじゃなくて羨みだ。
けど、彼らは文明に憧れこそ抱けどノスタルジー的な羨みはない。
それがいつの日か彼もまた書物になった彼らの文化を惜しむ日が来るだろうな。
だけど、望む望まないは別として人間は、過去には過去の、今には今の、そんな暮らししかできないんだから、仕方ない。

僕の場合は時代とか文明だけじゃなくて全部羨んでしまう。
ついでに恨んじゃう。

2011年7月16日土曜日

称賛とミス。どちらミステリアス。
感覚と技術。どちらも未熟である。
安心と嫉妬。どちらもshitである。

欲望はつきんです。

2011年7月5日火曜日

昨日、ご飯を食べた18歳の女の子はデカルトがいなければ、今の私はいないと言っていた。
とても良いと思う。

2011年7月2日土曜日

今日、作ったお花をお客さんが喜んでくれたみたいで、またお願いしますとメールをいただいた。
嬉しい。だから、もっと上手くならないと。

そして、ところてんの様な昇進の話。
分からなくなる。

2011年6月28日火曜日

永遠なる主よ、我は今その大いなる慈悲に包まれております!

数年前に読んだときは拷問の様だったゲーテの『ファウスト』面白い…
やはり主の御心に触れた所以でしょうか。
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誰かの夫が言っていたのは探し物ほど時間を無駄使いするものはないと言っていたけれど、その通りだと思う。

つまり、今僕は物を探している。

日々の集積所である部屋と言う空間に秩序をもたらさないと、怠惰から混沌を極めてしまう。
集積所の中に紛れた目当ての物を探し当てるのは、まるで砂漠から砂金をすくい上げるかの如くである。
物が置かれた空間の一点、それが今の僕の関心の全てだ。

偉大なる主よ、我に秩序を、裁きを!
この日常の混沌から救い給え!

2011年6月24日金曜日

バフチンを買った。
バフちんのおかげでドストエフスキーがより楽しめる様になると良いな。

たまたま買った難波田史男と言う画家の本。
その中にもドストエフスキーがよく登場する。
うまく重なるもんである。

ゴリラズのCD欲しいな。
あとAC/DCのDVDも。

2011年6月21日火曜日

店長が辞めた。
おーここから可動域が増える。
まるで完全に遠い僕はちょっとびびるけども、いい感じでもある。

2011年6月16日木曜日

ブログをまた更新していきたいと思う。
しかし、僕を呪っているかの様なありったけの眠気。

2011年1月5日水曜日

iPhoneを修理した。
バイクのバッテリーあがってた。
PCがネットに繋がらん。
年末年始で読めたのは「ペスト」のみ。
今年は金沢に遊びに行くぞ。
その前に東京に行く。
ジムに通いたい。
うるとらそーる!