2010年8月23日月曜日

あはん

新しい花屋さんで働くことになりました。
勉強だー。

そして仕事とは別に個人的に考えるべきは花とイラストの融合なのです。
立体と平面のバランス。
だれの言葉だ「死んだ立体から生きた平面へ!」って。

2010年8月11日水曜日

なまえ

花のマスクの正式名称が決まった。
これまでは便宜上"花のマスク"と呼んでいたけれど、昨日ふと思い付いたのが、花面(かめん)。
シンプルだけど、言い表せている。
今まで、なぜこれを思いつがなったのかな。

昨日、新しい花面も完成した。次はピンクの予定。

2010年8月5日木曜日

花のマスク

まずはIkd(男女の生活ユニット)とMiukに花のような感謝を。





5月末、イタリアはフィレンツェに花の男現る。

ぼくが花の男になる前は、マスクという顔を隠すもの着用すれば、個の顔が消えることで、個人の意識から発生する羞恥心も消えると考えていました。ぼくらがぼくらと認識されるのは概ね顔に頼っていますからね。

なので、知り合ったばかりのAnsyに花のマスクを被りましょうと打診して、あっさりと拒絶されたぼくは愕然たる思いで、フィレンツェの乾いた風に吹かれて揺れるAnsyのライトブラウンの人工的縮れ毛を茫然自失と眺めていました(そういえばあの日はずいぶんと晴れた日だったっけ)。

―ここにそのやりとりが記されている。ここではAndyが主体となっている―

「顔を捨ててみませんか?なに未来永劫捨てるわけじゃないですよ、ほんの小一時間ですよ。」
五月末、地中海の優しく乾いた風が私と眼鏡の男の間を吹きぬけた。

「顔を捨てる?つかめないな」そう言って、私はテーブルの上に置かれていたステンレスの灰皿の縁に目をやった。湾曲した私の双眼が私を怪訝そうに見つめていた。
「いえ、本当に簡単なことですよ、マスクと言うか、まぁ覆面ですね、それを被って街を歩いていただく。それだけです、もちろんその分の対価はお支払いするつもりですが」
「なんで、わざわざ私がそのマスクを被るんです?顔を捨てるなら、別にあなた自身でも問題ないわけでしょう?」
「それが分かっておられるなら話は早いと思うのですが…」
「だからこそ…つまりなぜ私なんだ、と思うんだよ」
「おっしゃる通り、あなたでなくても誰でも良いんですよ、結局のところ。でも、誰でも良いって事はあなたが適任であるってことでもあるでしょう?もしかして、なにか顔を捨てることに恥じらいを感じてらっしゃるんですか?」
「恥じらい?そりゃ少なからずあるでしょ、それは当然だよ」
「まぁおっしゃることは分かりますよ、ただそれは顔を有しているからそう感じておられるんですよ。顔がないんだから、誰もあなたをあなたと判別できないでしょう。それならどこから恥じらいが発生しますか?顔を無くした瞬間からあなたはあなたでなくなり、誰でもない者になるんですよ」
「それでも自分がマスクを被っている事実は変わらないよ。そうなれば自意識が行為に追従するでしょう、そこに恥じらいが生まれてもおかしくはないさ」
「そうでしょうかね、むしろ顔を持たないことで行為の範囲はいくらか広がりますよ、なにしろあなたはあなたでないのですから。その広がりはあなたの力ではなくマスクが生む力ですよ。川面をすべる木の葉のようにマスクの力に身を任せてしまう方が変な恥らいも生まれませんよ。恥じらいってのは往々にして自意識からの発生でしょう。その自意識はどこから生まれるかと言えば、自分が自分であることの違和感でしょう、これは自己的な自意識ですね。その違和感も案外、顔を有しているからなんじゃないでしょうか。つまり顔が個を大きく決定づけていると。そして顔という個があるからこそ他者と繋がってしまう。そこから他者性の自意識が芽生える。顔がなければ他者との繋がりも消え失せるんじゃないですかね。」
「よくわからないけど、どれだけ言葉を並べたって、やはりそれは君の言葉だよ。私の考えには成り得ないよ。」
「もちろんです、僕の言葉です。無理やりに押し付ける気はないですよ。ただ、魅力的だとは思いませんか、その誰でもない者になるとうことは…ぼくたちは生きている限り顔に言動を規定されてしまうんですよ。匿名性になると誹謗中傷だって平気な精神性を持ちあせているんですよ。それを皮膚で包むと非常に現世的な聖人君子が出来上がってしまうんですよ、つまりマスクには別人格への足がかりなんですよ、それがさっきも言った行為の範囲が広まると言うことですよ」
「そんなこと言ったって、マスクを着脱する際は君かその知り合いがいるんだろう、それじゃ私は私を捨てきれないよ」
「だからと言って一人でやるにはまだ勇み足でしょう?」
「よしてくれよ、そういう揚げ足を取るような話の進め方は。やらないよ、私はやらない、いや、できないよ。」


初対面のMiukに手伝いの打診をしたときも、あのくりっとした目に怯えみたいなのが浮かんでいたように思うし、もちろんぼくもそれが当然だと思いました。
半強制的なぼくの誘いにMiukがぼくの手伝いをしてくれることになったのは悲劇か喜劇かわからないけれど、刺激にはなるだろうと、ぼくは一方的に感じていました。

Ikdの二人は、彼ら特有の距離感からわりと快く引き受けてくれた様に思います。周知の通り旧知の仲でありましたから。

ぼくは花の男になる為に花の大聖堂付近の路地でマスクを被る。
そして、ここから先はぼくでなく花の男になったのでした。

変身のその姿をReoと名乗るレストランの店員に目撃される。
「Hey Boy、なにやってんだYO?」
「一緒に写真撮ろうぜ」
「Wow, Hey Men No3Qだぜ」
「かまうもんか」なぜなら…
「No!Fuckin’boy また今度だ See you あげいん」
「かまいやしない」なぜなら花の男は顔がないのだから。
Reoはメニューボードに顔を隠して、お互いの顔が不詳のまま記念すべきシャッターが切られた。




それから大聖堂正面へ向かい歩いていく。
「わお、なんという視線の冷たさ。マスクの中はこれほど暑いというのに。
なぜ…まさか…こんなはずじゃ…もっとちやほやされるはずだったのに… 」

マスクによって押し殺されたはずの羞恥心が発芽する、あるいは発牙して、花の男の心を噛む。 噛み痕から花の男の心情が漏れてくる。まるでもんじゅのナトリウムのごとく。
マスクがぼくに“もっと歩け”と囁いている。

「にげちゃだめだにげちゃだめだにげちゃだめだ…
逃げるどこへ?マスクを被ったまま?顔のないものを裁くことができないけれど、それは無罪でも有罪でもなく、裁判はこの地上で際限なく広がり続ける。
そして地球が丸くなって以来ぼくの踏み出す一歩が世界の中心になるのだから…
だからといって=価値の中心になることではないことくらい明白に分かってはいるのだが…もちろん、諸君がどう思おうとぼくの知ったことではないのだが…
結局、ぼくが逃げ出さないのは…ちぇそんなことどうでもいいじゃないか…
なに今すぐ、マスクを脱いでやる…裁判を終わらせてやる…!」

いうまでもなくぼくはマスクを脱がなかった。



こうして花の男は歩みを続けた。
子連れの家族のよびかけ、あらあなた、いいわね、うちのBabyと一緒に写真に撮らせてくれないかしら。
「Hey Mam ごめんこうむるぜ?」と言った表情のBaby。
それでも母は強し、Babyの意見は無視され、花の男とBabyは一枚の写真に納まった。



このやりとりをみていたのは英語を話すおじさん。
「Who are you?」
花の男は世界のどこにいても、もはや異邦人なので英語なんて通用しない。
花の男が誰であるか、どこから来たのか…?
と言うより顔を無くすことでそう言った人種の壁さえ融解するのです。
それでも花の男は自分が「Jap」であることを口にしていました。
なぜなら、おじさんは顔でコミュニケーションを図っているのだから、花の男の正体が気になるのは当然なのですから。

それからたくさんの人と一緒に写真に写った花の男。これはつまりインパクトともに人種の壁を越えたアプローチ(つまり中の正体は不問)だと花の男は感じました。
中の正体が不問であるから、花の男としての行動はいくら目立つとしても、いや、目立ってしまうからこそ、顔をさらしている普段の行動よりも身軽なものになるのでした。
顔があると、なにかと目立たぬように過ごそうとするのが人の常なのですから。
ほら、言うじゃない“見るのは愛で、見られるは憎悪”
マスクを被ることで目立ったとしても、それはマスクまで。見られているようで、見ている。見ているつもりが見られている。
カメラで撮っているつもりが撮らされているということ。



―ここで字体の異なる別の文章が挿入されている…ただ内容は上記の文章とどうも似ているが、どうも散漫でまだ未完のように思われる―

しかし、重要なのは、ぼくが再発信されるのではなく、その花の男、行為のみが再発信されると言うことです。
なぜなら花のマスクを被ったその瞬間、ぼくはぼくでありながら顔を喪失するからです。
ぼくらが漠然たる他人から確固たる個を判断するのは言動でしょうか。往々にして顔で判断するでしょう。
顔の喪失により他人がぼくをぼくと認識するのは困難になり、誰でもない者になれる。“誰でもない者”と言うのは“誰か”ではない。完全なる匿名なのである。そこにぼくをぼくと見なす顔がないのだから。

ぼくらは顔で生活をしている。顔が日常の通行手形になってどこへも行ける。
顔で生活しているからこそ、誰でもない者の行動範囲というのは非常に狭く限られてしまう。手形なしに私有地へ一歩踏み入れることは非常に難しくなる。私有地へ顔を持たず踏み込むのは顔を隠したほうが事が運びやすい強盗くらいでしょうか。しかし、強盗も日常的な行為では有り得ない。

では、マスクが必要な場面とは。
それは素顔では成り得ない者になる為に顔を隠して行為に及ぶシーンである。
儀式や祭りで見かけるマスク、覆面レスラー、仮面舞踏会、銀行強盗の目だし帽等々。いずれにしても日常の場面ではなく、マスクの有効範囲は神聖な儀式から犯罪行為にまで及んでいる。
マスクの日本語訳は仮面となり、つまり“仮の面”である。それは別人格に他ならない。
儀式におけるマスクは土着信仰的な意味合いがあり、マスクをつけることで、人間でないモノ(民族的なマスクは往々にして人外の様相)になり儀式をとおし、その土地の神と交信し災い回避を願う。
仮面舞踏会では顔を隠すことで大胆なアプローチも可能になり、情事もその場のみで終わり、日常には関与しない。
ある選手が覆面レスラーになることで変容する試合運び。
その他、マスクを被り、顔を隠す状況と言うのは、変身的、あるいは個の消却的な意味合いが含まれている。(剣道などの面は防護目的であり、面の下に誰がいるのかは基本的に分かっているので、ここで言うマスクの用法とはいくらかずれている)

しかし、この花のマスクは上の行為にいまいち当てはまらない。それこそが花の男の存在の耐えうる理由なのかもしれない。
花の男の出現場所はパブリックスペースであり、顔を持つ人々が一番他人になれる空間である。それ以外の空間に一歩足を踏み入れるということその通行手形なしで顔を持ったものと同じ場に存在するとうことで、それは非常に危ういことである
顔を持つものは自分以外の他人は風景として扱われるのである。どれだけ人ごみで体が密着しようとも完全なる顔を持つ他人なのである。その瞬間にぼくらは自分の顔を、他人の顔に安心感と疎ましさとさえ感じるのではないか。
それは見ることと見られることが生む愛憎かもしれない。
しかし花の男は他者の視線を感じながらもマスクがそれを遮り、その視線を見返すのである。その振る舞いを顔を持つものは他者はどこかで期待している。
花の男として誰でもない行為に及ぶためにマスクを被る。そして誰でもない者は、マスクの下で自由な人格形成が可能になるのではないか。いや、新たな人格形成の為にマスクが存在すると言っても過言ではない。


ぼくでないボクはぼくから解放されて、行動も少しだけ広がるようになる。顔を有しては出来ないことが可能になる。
これはそもそものマスクの成り立ちと通じる部分が少なからずある様に思われる。



とは言え、花の男も中の正体の気持ちによってその行動は規定されてしまうのだと実感し、花の男の中身がAndyだったとしたら、また違う形で花の男はフィレンツェに存在したのでしょう。
そして、撮影(これをIkdとMiukに頼んでいたのです)されていると言う意識も少なからず花の男の行動を大胆にさせる一因になるのでした。
あとはそこにハプニングでも起これば映像記録は非常に興味深いものになったかもしれない。