2013年5月16日木曜日

ひさびさに

活動的になればこそブログの再開か。 一年以上も更新していなかったのかと思うと、 ろくに文章も書いていない期間もそれに比例しておりますな。 それでもやはり色んな感覚が浮き沈みしながら、 日々を送っています。 だから多分、文章にしたいことはたくさんあります。 Facebookでは書ききれないことを更新しよう。 花のことをとりあえず書きたい。 そこまで書くことは無くてもいい。 なにか自分が書くことで気づくこともあるだろうということで。

2012年1月3日火曜日

髪の毛云々

去年は髪の毛を染めたりパーマを当てたりした。

髪を染めると言うことは社会に染まり、パーマを当てると言うことは自分を曲げることなのか。

そして世間はそれを垢抜けると言うのだろうか。

医者「栄養失調ですわ。なんか滋養のあるもんでもあげてください。…はぁい、次の方?」
清太「ちょっと待ってください先生、滋養のあるもんて何ですか?そんなもん、どこにあるんですか?先生!」

※※※※

清太「節子、ただいまぁ。ん、どないしたんや?」
節子「なぁ兄ちゃん?櫛で髪梳いていたらなぁ、もつれた部分がひっかかるねん…

ほんで、うち、思てん。これって人間が置かれてる不条理性とよぉ似てはるわぁって…


だってなぁ、ただ伸びていかはるだけやったら、誰にも邪魔されへんはずやのに、全部の髪の毛が一斉に伸びようとしはるし、あとは頭が動かはるたんびに(重要なんはな、兄ちゃん、髪の毛があるから頭がある訳やない言う認識やねん)ちょっとずつ絡まりはって、わだかまりが出来はるんやないかなぁ。
しかもなぁ、伸びれば伸びるほどやねん。
ほんで気付いたときには身動きがもう取られへんのよ。
西宮のおばさんに当て擦られて、出奔したうちらみたいやなぁ、兄ちゃん?


でもなぁ、兄ちゃん、一番嫌なんはな、脱落していくお友達や兵隊さんを目にした時やねん。
なんでってな、死の恐怖とな生き延びた分だけ孤立してしまう時間があるからやねん。

なぁ何で髪、すぐ抜けてしまうん?
広い頭に髪の毛、一本って頼りないなぁ…
なんか、戦時中に身寄りもなく防空壕で生活するようなもんやわぁ。
兄ちゃん、ドロップ美味しいなぁ…」
清太「節子、それ精神やない、物質や!」

2011年12月22日木曜日

とりあえず

来年から勤めているショップのコンセプトが変わる。

あるスタッフはその方向性と言うか、社長の方針が今ひとつ掴めないと言っている。
まあ社長の気まぐれと言うことに関しては、そうなのだろうと思う。

だけど今、思うとこの店で働き出したときの印象としては、お洒落なだけだなと感じていた。
平凡なモダンと言うか。

モダン、近代的って言うのは獲得すべきものだと思っていたから、そのコンセプトを強固に打ち出のであれば、社長に賛同したい。

それっぽい店でそれなり花を売るよりも、試行錯誤しながらでも独自路線を行くほうがきっと楽しいに違いない。

とにかく社長のあれしたいこれしたいを自分の経験に変えて行かねば、この先は見えない。

2011年12月16日金曜日

地下室のハーモニー

伊藤計劃の「ハーモニー」を読んだ。 高度な医療厚生による管理社会。 病気の排除。他人を労わり、他人から慈しまれる関係性。 限りなく調和に近い社会。 しかし、その空気に耐えられない人も中にはいる。 原因は「意識」。 その微妙な蟠りが調和を完成させない。 が、その意識を人間から取り去ってしまっては、人間活動の根拠はどうなる? しかし人類のモデルに到達する為には意識を排除しなくてはならない。 こんな世界観の近未来のお話。 読んでいて思い出したのはドストエフスキーの「地下室の手記」。 「およそ一切の意識は病気である」なんて言い切る地下住人。 水晶宮ではあらゆる事柄が自明になっており、選択の必要は無いし、 もちろん主体性も不要なのである。 オルゴールが調和を奏でさえすればそれでいい。 しかし、そんな社会のどこが楽しいのだ? それに人間ってやつは完成された社会になったとしても、 気まぐれにそのシステムを打ち壊そうとするやつが現れるもんなんだ。 なんかもっとたくさん書きたいけど、そんな力がない。 それがこの「ハーモニー」の主人公やその友人であったりする。 文体も軽くて読みやすいし面白い。 登場人物の名前がアニメ的な雰囲気だった。意図的なんだろけど。 そこが最後まで馴染めなかった。 霧慧トァンとか御冷ミァハって。 個人的にはそんな社会が来ることを望む。 自意識に絡まって他人が敵に見えるよりも、 博愛の調和に満ちた機械的な人間の方がいい。

2011年11月21日月曜日

映画の鑑賞法についての雑感

今までは映画を観るというのは映画館のスクリーンやTVの前で2時間くらい座する必要があり、
それにはやはりそれなりの時間的余裕がなければ難しいものがあった。
いくらお気に入りの映画とは言え、全シーンを隈なく観ることもなかなかに容易ではない。
一度観るくらいでは映画の筋は覚えていても、登場人物のセリフなどはイマイチ覚えられないし、
確認したい場面のために巻き戻したり早送りしたりするのも手間がかかる。
個人的に映画はすきだけど、映画を観ると言うのは骨の折れる作業だった。

しかし、テクノロジーの発展により、
ポータブル機器に映画を落とし込むことが出来る様になったのは映画鑑賞における一つの革命的な出来事に思える。
特に現代人の必需品である携帯電話に於いてそれが可能になったことに大きな意味がある。
要は映画がポケットに収まってしまったということ。
文庫本と同じ様にいつでも気軽に観ることができる。
文庫本を適当に開いて読み始めるのと同じ様にどのシーンからでも観始められるこのスナック感覚が一番画期的な気がする。

ただ、スナック的なだけあって2時間も携帯電話の大きくはない画面を観続けるのはつらいから、何度も観た映画を落とし込むのが良いとは思う。

「マグノリア」と「存在の耐えられない軽さ」を観よう。
これらの映画の中には見るべき台詞も多いことでしょう。

この記事を読んだ人がいれば、あなたの好きな映画を教えてください。

2011年11月5日土曜日

ワイパー

雨降りしきる、本日 しりきに動くワイパー なんてダサい動きだろうか ふとワイプなんて言葉が浮かぶ TV画面の隅に浮かぶタレントの表情 ワイパーのダサい動きは雨を隅に追いやる ってことは ドライブとドライバーの関係性のように ワイプとワイパーは同じ語源か ワイプが隅でワイパーは隅に追いやるモノ 真実はどうか知らないけど、 こんなつながりをハイパーリンクというのか。

2011年11月3日木曜日

植物と動物

植物と動物。
動物界隈で一番大きいのは恐らく鯨。
陸上動物なら象。
人間に比べると確かに巨大だ。
しかし、植物はその背丈だけで言うと象はおろか、鯨よりも遥かに高い。
そこらへんに生えている樹木でさえ立派なもんだ。

動物とは動く物。
植物とは植える物。
動物は動けるからこそ生まれる生存競争の中である程度の大きさで留まらなければやっていけなかったのではないか。
逆に巨木たちはその背丈がなければ淘汰されてしまったのだろうか。

「生物と無生物の間」で人間はなぜこの大きさなのかと問うていた。
その答えは人間がきちんと機能する為の必要な細胞が今の大きさを形成するとか言ってた気がする。けど、数年前に一度読んだだけなので違うかもしれない。

動ける物は、能動的に子孫繁栄の活動ができる。
植える物は、受動的にならざるを得ないけれど、高さのある樹木はより遠くへ種子を風に乗せて飛ばすことができる。

その整合性はともかく、こんなことを考えているとなんとなく映画で見るような山とか森にいきたくなりました。