2011年7月27日水曜日

数日前、「コクリコ坂から」を観てきた。
昭和と言う時代のノスタルジーってやつなのね。
しかし、このノスタルジーってのは何なんだろう。

辞書にはこう記してある
ノスタルジア【nostalgia】
異郷にいて、故郷を懐かしむ気持ち。また、過ぎ去った時代を懐かしむ気持ち。郷愁。ノスタルジー。「―をおぼえる」


異郷にいて故郷を懐かしむのは分かるけれど、まるで体感したことのない1960年代に僕がなぜ郷愁なるものを感じるのだろう。というか感じているのだろうか。
まあやっぱりメディアからの影響なんだけど、その時代を体感していないにも関わらず何か大事なものを失くした様な感覚が僕の中に頭も擡げている。
何も失っていないこの喪失感をノスタルジーと呼ぶ?
あったことは知っているけれど、今はもうなくて、それをどこか惜しむ気持ち。
これは懐かしさなのだろうか。

ところで生きているってことは時間の流れの中の最先端に居ると言うことで、過ぎ去った時間にいくらかの名残を抱いてしまうのが、空腹ではないけど、満たされてもいない文明的現代人の僕の性質なんでしょうか。

ついでに生半可に去勢されて生きている僕としては、作中にあった学生運動のようなバイタリティを見せられると、本能の残滓が疼くけれど、それだけでおしまい。
だから、未開の地の人々が近代化を目指して、自分たちの歴史を書物上の出来事に追いやる行為、彼らが投げ打とうとするその生活が宝箱で、獲得に熱を上げるのはありふれた木箱でしかないと言うことを歯痒く思うのも、やはり僕が柔らかい土地から眺めているからだ。

そう、この感覚はノスタルジーや懐かしさと言うよりはないものねだりだ。
単なる羨みなのかもしれない。不可逆的なレアアイテムみたいな。
そうだよ、懐かしさじゃなくて羨みだ。
けど、彼らは文明に憧れこそ抱けどノスタルジー的な羨みはない。
それがいつの日か彼もまた書物になった彼らの文化を惜しむ日が来るだろうな。
だけど、望む望まないは別として人間は、過去には過去の、今には今の、そんな暮らししかできないんだから、仕方ない。

僕の場合は時代とか文明だけじゃなくて全部羨んでしまう。
ついでに恨んじゃう。

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